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「自立」という呪縛が、引きこもりからの脱出を空転させる

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「自分探し」への疲労感

少し話がそれてしまいましたが、つづいて私がニートの若者たちと接しながら感じた、彼らの長所や短所について書いてみたいと思います。

冒頭で、「自分の好きな道を歩きなさい」という親の寛容さが、むしろ若者を苦しめてしまうという話を書きました。

その延長線上にあると私が感じるのは、引きこもりの若者が抱えている「自分探し」への疲労感です。

「自分は何がしたいのか」

「自分って何者なのか」

引きこもった部屋で、彼らはひたすらそう自問自答します。

でも、いくら考えても、そんなものすぐに答えが出るはずがありません。

考えて、考えて、そして疲れきってしまう。

自宅からほとんど出ないのに、もう何人分もの人生を生きたかのように消耗してしまう――そんな若者が最近非常に多いのです。

私のところにも大きな旅館の息子で、上智大学に入ったのに就職できず、ひたすら心理学の専門家になるんだと一人で思いつづけ、都内の下宿に引きこもっていた若者がいます。

一人で難しい本を何冊も読んだりして、黙々と勉強を続ける。

ただ、現実には部屋に引きこもっているわけですから、一人華やかな将来像を思い描いて盛り上がっては、下宿にいるだけの現実にまた落ち込む。

そんなことの繰り返しで、延々たる堂々巡りです。

私に言わせれば。圧倒的な経験不足です。

一人頭の中で延々とシミュレーションだけでやっているから、どうしても思考は空転せざるをえない。

実際に自分の身体を動かして試し、そのつど失敗しながら学んでいくという発想が、すっぽり抜け落ちてしまっているのです。

それが私には理解できない。

だけど、若者に言わせると

「頭の中だから、安心していろいろ考えられる」

と言うのです。

実際に行動する前に、頭の中でまず「自分探し」をして、「自分を発見」してから行動に移したほうが効率的だと言うわけです。

引きこもっていても、なぜか「作業効率」を考えている点が、どこかブラック・ジョークめいています。

しかし、これはニートの若者たちだけに限った話ではありません。

近頃、電車内の広告を見ても、「自分らしく働く」「自分らしい住まい」といったものが目立ちますが、そんな「自分らしさ」ブームも、私には同じことだと思えてなりません。

つまり、自分は何がしたいのか、自分はどんな人間なのかがきちんとわかっている人は、そもそもそういう広告には吸い寄せられないはずです。

それがわからない人たちが、その「自分らしさ」という言葉の向こうに、勝手な理想像をやみくもに思い描いてしまうだけなのです。

先日も、派遣社員の募集広告で、「自分らしく働く」という言葉の下に、スーツ姿でさっそうと歩く、美人女性の写真が添えてありました。

ああいう広告を見ていると、私は正直理解に苦しんでしまいます。

なぜなら、自分らしい働き方がきちんとわかっている人なら、もっと具体的な仕事を選んで、情熱をもって、その仕事に長期的に取り組むはずだからです。

それが、どうして派遣社員なのか。

もちろん、他人より抜きん出た英会話能力など、特定分野のエキスパートとして、複数の会社の仕事を請け負う人たちもいるでしょう。

しかし、この「自分らしさ」広告に吸い寄せられる人たちが、そういう人たちだとは私にはどうしても思えません。

企業側にとって派遣社員は、基本的には短期雇用です。

業績に応じて増減できて、正社員より人件費が安い。

つまり、とても都合がいい労働力なのです。

企業側にとって都合のいい労働環境で自分らしく働ける人とは、いったいどんな才能や技術の持ち主なのでしょうか。

少し考えれば、答えはわかるはずです。

こういった口当たりのいい「自分らしさ」広告が増えているのは、それだけ「自分らしさ」をわかっていない人、でもそれを求めずにはいられない人が、世の中に増えているという証拠ではないでしょうか。

「自分らしさ」が好きなのは、ニートも普通の人も大差はないのです。

トライ・アンド・エラー(試行錯誤)がない

もうひとつ私がダメだなと思うのは、いまの若者にはトライ・アンド・エラー(試行錯誤)をしようという発想がないことです。

中学校でも高校でも、トライ・アンド・エラー(試行錯誤)できることは実はたくさんあります。

だけど現実には、彼らには学校で何かを体験したような実感がきわめてとぼしい。

学校は、親や先生から言われるから通っている場所でしかない。

だから感動的な体験もとぼしいのです。

成功するにせよ失敗するにせよ、そういう体験そのものを避けようとする傾向が、近頃の若者にはあるように思えてなりません。

それは家庭も同じです。

子どもがさまざまな体験をできる場がなくなってきました。

昔は子どもに水くみをさせたり、薪をくべて風呂を沸かしたりと、彼らなりに家庭で担っている仕事がありました。

だけど、いまの親は子どもにそういうことをあまりさせない。

勉強だけしていればいいというような環境を、親が勝手に整えてしまうのです。

すると子どもは、学校の成績がいいというだけで、いたずらに万能感をつのらせてしまいがちです。

学校の先生も親もそれを賞賛する。

逆に、勉強ができなければ、親子ともども必要以上に劣等感をもってしまう。

子どもにとっては、身近な大人である先生と親は「社会」そのものですから、当然の結果です。

学校でも家庭でも、子どもたちは、多様な自分だけの実体験を持てなくなっています。

そこで彼らなりノウハウを持てないまま、一人頭の中で「自分探し」を延々と繰り返してしまう。

そして、ますます動けなくなるのです。

「自立しなければ」という呪縛

ニートの若者と話していて、「親から聞いた言葉で何を一番守らないといけないと思っているか」を訊いてみると、よく出てくる言葉があります。

それは、

「自立しなさい」
「他人に迷惑をかけてはいけない」
「人生の目的を持ちなさい」

その三つです。

だから私は、即座にそれを否定するようにしています。

「自立なんかする必要はない」
「他人ともたれ合って生きろ」
「人生に目的なんか必要はない。ただの人として楽しく生きろ」

いままでそんなことを言う大人を、若者たちは見たことがありませんから、最初はポカンとした顔をしています。

だけど私が、彼らにそんなことを言う理由はこうです。

ニートになる若者は、どちらかと言えば、生真面目なタイプが多い――それは本書の冒頭でも書いたとおりです。

圧倒的な経験不足による「糊しろのない真面目さ」ゆえに、ささいな失敗にも必要以上に傷ついてしまう。

物事をゼロか百で考えてしまうのです。

だから「他人に迷惑をかけるな」とか「人生の目的を持ちなさい」といった言葉に、がんじがらめにならないように、頭を柔らかく揉みほぐしてやる必要があるのです。

しかし、それは簡単ではありません。

とりわけ「他人に迷惑をかけてはいけない」「自立しなさい」という言葉に、最近の若者はかなり洗脳されています。

だから、私は折につけ、先ほどの言葉を繰り返し言うようにしています。

すると若者たちも、

「ああ、あのおっさん、また同じことを言いはじめたぞ」

と思うようになります。

必ずしも若者たちがそれを理解したり、賛同しなくても構わないのです。

「また、同じことを」と認知されるぐらい言いつづけることが重要なのです。


ここでひとつの事例をご紹介します。

「自立しなければ」という言葉にがんじがらめにされた一人の男の子の話です。

敏文君(26歳)は、大学には行かず、専門学校からコンピューター会社に入社しました。

たぶん、彼の「真面目」すぎる性格から考えて、母子家庭という事情もあり、四年間も大学に行くのは無駄だと考えたのだと思います。

お母さんもすごく真面目で、いいお母さんです。

そんな彼が、入社三年目にある仕事を任されました。

だけど、それがうまくいかなかった。

それで彼は、会社の窓から飛び降り自殺をしようとしたらしいのです。

物事をゼロか百かで考えてしまうから、いきなり「仕事がうまくいかなければ、自殺」という展開になるのです。

結局、自殺は未遂に終わったものの、敏文君は会社を辞めてしまいました。

お母さんにはそんな敏文君の「糊しろのない真面目さ」「体験の少なさ」がよく見えていて、私たちの寮で一年間共同生活をするよう、彼にすすめました。

同年代の友だちと、もっといろんな体験をしてほしいと考えたわけです。

彼もそれを受け入れて、入寮してきました。

しかし、「母親に経済的な負担はあまりかけたくないから、一日も早く自立しなければいけない」という思いが強すぎて、敏文君はまるで周囲になじもうとしません。

もちろん、母親思いの真面目ないい子です。

ただ、自分が体験不足だという自覚が足りないのです。

せっかく入寮したのだから、いろいろなイベントに参加してみないかと声をかけても、

「そんなことは無駄だと思います」

と少しも顔色を変えずに言い、ひたすら拒絶するのです。

親に迷惑をかけてはいけない、早く自立しなければいけない、という思い込みが強すぎて、もう身動きできないようになってしまっている。

まさに「真面目さゆえの悪循環」に入ってしまっているのです。

ある日、私は敏文君に喫茶店でこう話したことがあります。

「あそこに、おばさんのお客さんがいるだろ。

あの人はさっきから聞いていると、隣の家の猫が死んだことから、最近の経済状況まで延々と話している。

おまえ、あのおばさんと話してみたらどうだ。

コミュニケーション能力がつくぞ」

すると彼は即座に、

「隣の猫と経済状況は、何の関係があるのですか?」

そう真顔で言うのです。

それよりぼくは話し方教室に通いたいんです、と。

そんなところに行かなくても、あのおばさんと話すだけで話し方の勉強になる、といくら言っても、まるで彼は聞き入れないのです。

敏文君は入寮三カ月後、ある騒ぎを起こしました。

「寮を出て自立したい」という彼の申し出を、スタッフに「まだ早すぎる」と説得されたのがきっかけでした。

敏文君はそれを「おまえは自立できないんだ」と自分を否定されたと誤解して、近所の地下鉄の線路にしゃがみこんで自殺をはかったのです。

幸い、反対側のホームにいた人が非常ベルを押してくれて、彼はケガもなく無事でした。

その夜、事務局から連絡を受けて飛んできたお母さんが、

「自殺をしようと思ったとき、私の顔を思い出してくれなかったの」

と言うと、敏文君は表情のとぼしい顔で、

「思い出したけど・・・・・」

「悪いと思ったけど・・・・・」

と話すだけでした。

お母さんの言葉が耳に届くだけで、彼の心にまで届いていない――私が見るにそんな感じでした。

彼のように心の成長を伴わない、生真面目なだけの若者の急増が、私にはとても気になっています。


反対に、和幸君(24歳)は、「自立の呪縛」が比較的緩かったタイプです。

彼は中学校三年生で不登校になり、そのまま六年間引きこもってから、私たちの寮に入ってきました。

すると彼は、自分から積極的にいろんな活動に顔を出していくわけです。

そして「おはよう」といった挨拶や、「元気?」といった程度の世間話をすることの大切さにも気づいていきました。

中学校三年生から六年間引きこもってきたから、そういう緩い人間関係さえまるで持っていなかったのに、です。

「そんな挨拶程度の人間関係でもないと、何かのイベントがあって人手が足りないときに、いきなり『手伝って』とお願いしても協力してもらえませんよね」

彼は私にそう言ってくれました。

まさに、それが人間関係づくりの第一歩なのです。

さっきの敏文君は、そういう「無駄の効用」のようなものにまるで気づいていない。

和幸君は一昨年からITベンチャー会社で、本人の希望どおり、コンピューターのプログラムの勉強ができるところに、半年間の無給見習いで、すっと入り込んでしまいました。

その見習い期間もクリアして、いまは月収10万円のアルバイトに昇格しています。

中学卒業の和幸君のほうが、専門学校を出てコンピューター会社に入った敏文君より一足早く社会に出て行ってしまったのです。

前に書いたように、就職経験があるニートのほうが、プライドが高い分だけ、やり直しが難しい典型例のひとつでもあります。

寮に来て、周囲となじむ若者というのは、その「自立しなさい」という呪縛が比較的緩いタイプが多い、というのが私の印象です。

反対に、自立の呪縛が強いと、結果を急ぐあまり気持ちが焦って、空転してしまいがちです。

寮での同世代の仲間と共同生活をしたり、友だちと協力し合うなんて時間の無駄としか考えない。

一日でも早く、学校や会社に戻らなければという思い込みが強すぎるのです。 

そういう若者はアルバイトを始めても、すぐに人間関係でつまずいてしまいがちです。

その結果、ふたたび実家に引きこもってしまう。

基本的な人間関係を築く能力がなければ、いまの世の中、アルバイトだって続けられないからです。 

>>次回

「希望のニート」二神能基著 2005年6月2日刊行 より

このテキストは株式会社東洋経済新報社(以下「出版社」という)から刊行されている書籍「希望のニート」について、出版社から特別に許諾を得て公開しているものです。本書籍の全部または一部を出版社の許諾なく利用することは、法律により禁じられています。

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執筆者 : 二神 能基(ふたがみ のうき)

二神能基

認定NPO法人ニュースタート事務局理事。1943年生まれ、早稲田大学政治経済学部卒。1994年より「ニュースタート事務局」として活動開始。千葉県子どもと親のサポートセンター運営委員、文部科学省「若者の居場所づくり」企画会議委員などを歴任。現在も講演会やメディアへの出演を行う。

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