ここ数ヶ月で入寮したメンバーの、自己紹介文です。
最後のIくんは、かなりの大作!
文章が書けるメンバーが増えていますね。
風が気持ちいいなあ…
それが、この町の第一印象でした。
こんにちは。初めまして。
私がここNSを知ったのは3年前の事です。
その時僕は「ここは一体何をしているのだろう?」と思っていました。
それから色々あって今年の4月、口うるさい両親に半ばヤケクソ気味にここのパンフレットを突き付け、何となく反対するんじゃないかとか考えていたのに、気付けばトントン拍子に話が進み面談の予約や何やで初めて訪れたのが6月の鍋会でした。
酔っぱらうのは当たり前、来る人は老若男女様々、誰が関係者で誰がそうでないのかすら分からぬ有様。
自分もだいぶ乗せられてあっちこっちへ。
何とか家に帰ったものの、あまりのカルチャーショック(?)に眠れなくなりました・・・
それから寮に行けと言われ、僕自身も行きたいのか良く分からぬまま何となくOKしあれこれ準備を整えて、ここへ来たのが7月頭になります。
正直、自分でも未だに分かってない所がたくさんあります・・・
でも、来たことに後悔はしたくないです。
迷った末にここに来たことに、意味があると信じたいです。
この行徳の街には、絶えず風が吹いています。
ビルの間を吹く風とは違う、ふわりとした風。
今はただ風のように、ゆっくりと歩いてみようと思っています。
※Yくんは、Yくん自身がニュースタートへ問合せをしてきたのが始まりです。
3年後の今年5月、Yくんに勧められたとご両親が講演会に参加。
そこからあっという間の入寮でした。
初の鍋会は、遅くまで楽しんでいたようだったけど、その夜は大変だったんだ・・・
6月の終わりに入寮しました。
それまで長い間一人暮らしていて、フリーターとニートを繰り返しているうちに気がついたらおじさんになってしまい(多くは職場の人間関係に悩んで辞めるパターン)、変化を求めてニュースタートのお世話になることにしました。
多分、寮でも最年長になると思いますが、内向的な少年がそのままオドオドした中年男になったように見えるかもしれません。
ここでは今更なんですが、人に慣れることを一番に考えています。
どうかよろしくお願いします。
一応、好きなもの等
・音楽を聞く(主にヘビーメタル。普段おとなしいので、その反動?時々ライブにも行きます。
・猫(ボランティアで福島の被災地の猫を保護するシェルターに行ったら、すっかりその魅力にやられてしまいました。その辺を歩いている猫を見てもニヤニヤしています。)
・その他、一人旅、寝ることといったところです。
※Oくんは、40代後半です。
自覚しているとおり、現在最年長。
年下寮生たちと一緒に、シフトをこなしています。
ヘビーメタルは、確かに見た目の印象と違うかも。
私は六月十四日に入寮しました。
寮の近くにアジサイがあり、毎日その場所を通るのですが、初めのころは青や青紫の花がいくつも咲いていました。
華やかで、惹かれるものがありました。
それが、たしか六月下旬ごろだったか、淡い緑に変色する花びらがでてきて、その数がじょじょに増えていき、今(七月十日)では半分くらいの花が淡い緑色になっています。
また、ところどころ淡い赤色になっています。それに、強い日差しのためか、花びらは幾分しなびていて、全体的に色あせて見えます。
私がここに来た当初の華やかさは、もうありません。
ここに来て、いろいろな人から「慣れましたか?」という質問を受けました。
私はなんと答えたのかよく覚えていないのですが、おそらく、「まあ」とか「いちおう」とか、そういう返答をしたと思います。
私には「慣れましたか?」という質問は答えにくいです。
私にとって、ここに来て変化したものと言えば、まっさきに思い浮かぶのはアジサイです。
自分がどのように変化したかはよくわかりません。
自分をうまく客観視することができないせいか、慣れているのか慣れていないのかもわかりません。
それで、たとえばアジサイの変化の方が、自分のことよりも身近に感じるのです。
私は自分のことがよくわかりません。
何が好きなのか、何をしたいのか、何を求めているのか、そういうことをものすごく曖昧にしか認識していません。
私は小説をいくらか読むのですが、好きな作家は誰か、と聞かれても、答えに困ってしまいます。
最近読んだ小説は、川上弘美の『センセイの鞄』、村上龍の『イン ザ・ミソスープ』、伊坂幸太郎の『重力ピエロ』、西加奈子の『ふくわらい』、中村文則の『何もかも憂鬱な夜に』、そして今読んでいる小説は江國香織の『神様のボート』です。
それらの作品がおもしろいかというと、どうも積極的にはおもしろいとは言えません。
では、なぜ読むのか?
それもよくわかりません。
したいこともそうです。
何をしたいのか、どういう生活を望んでいるのか、よくわかりません。
ただ、もしかしたらそれでもいいのかもしれません。
何をしたいのかわからないなら、目の前のことに全力で取り組めばいいのですから。
私はそうやって生きていました。
自分で言っても説得力はないかもしれませんが、目の前のことを全力で(あるいは真剣に)取り組んできたつもりです。
八年ほど前のことです。
目の前に嫌なことがありました。
とても不快なものがありました。
そのとき私は「逃げる」という選択肢を選びました。
当時の私の判断は真剣なものだったと思います。
自分にできる最大限のことをしたと思います。
(もう一度書きますが、こういうことは自分で言っても説得力がありませんね。「全力で逃げてひきこもりになった」と言えば、客観的に考えると「甘え」でしょう。しかも、ひきこもりとして八年間も生活したのですから、どうしようもありません)
八年間のひきこもり生活を経て思うことは、私は自分に期待しすぎていたのではないか、ということです。
自分自身に、自分の人生に、あるいは自分の可能性に期待しすぎていたのかもしれません。
それゆえに、目の前のことを真剣に取り組み、期待感の大きさゆえに、失望して、いや、そういうわけではないかもしれません。
(こうして書いてみると、見当外れなことを書いている気になります。私は自分のことがよくわからないのです)
私は自分には期待していましたが、他人にはほとんど期待することはありませんでした。
それは今でもそうです。
私は他人に期待しません。
なので、他人に寛容でいます。
他人から迷惑をかけられても、相当なことではないかぎり、腹が立つことはありません。
他人に期待しないので、寛容でいられるのです。
その一方で、他人に期待しないがゆえに、他人から感謝されても、それほど嬉しいとは思いません。
他人との繋がりが希薄なのでしょう。
いま思っていることは、軽い気持ちで生きていくことです。
物事を深刻に考えることなく、自分に期待することなく、気楽に生きていければと思っています。
ただ、そういう姿勢で生きるとは、他人と浅く付き合っていくことです。
そこに私の戸惑いがあります。
これでいいのか、と思うこともあります。
なにか確信のようなものがあればいいのですが、そうすればずいぶん生きやすくなると思うのですが、それがどのように得られるのかは全く見当もつきません。
それでもここで生活して「なにか」を得られればいいと、楽観的ながら思っています。
ただその一方で、こんなことをして何になるのか、という思いもあります。
生きる意味を求めることは、ある意味では恥ずかしいことなのかもしれませんが、私はどうしても自分がこの世界に執着している理由を求めてしまいます。
それを見つけることができれば、充実した生活を得られると思うのです。
ぼんやりと、そう思うのです。
読み返してみると、矛盾していることをいくらか書いているようにも思えなくもないですが、そういうものも含めて自己紹介とさせていただきます。
あと、長々と書きましたが、文章を書くことはそれなりに好きです。
(いや、でも時と場合によります。文章を書いていて、楽しいと思うときもありますし、自分が書いた文章を読み返して、くだらないと思うこともあります)
※Iくん、アジサイの使い方が秀逸です。
また文章を書いてほしいですね。
連載してもいいよ?
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